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ミャンマー歴史概要
ミャンマー族の南下

ミャンマー族の起源は、現在よりずっと北方のゴビ砂漠とチベット東北部の中間地、中国の甘粛省辺りであろうといわれている。それまでの現ミャンマーの有力地域は、クメール系のモン族とチベット系のピュー族の居住地域であった。8世紀頃、雲南にあった唐の朝貢国南詔が、イラワジ川流域、ピュー族のいた地域に攻め込んで滅ぼした時に、南詔に属するミャンマー族が南下して定住し、農耕をするようになったといわれる。 


ミャンマー王朝時代


現在の上ミャンマーに定住したミャンマー族は、9世紀中頃までには確固たる勢力を持つようになっていた。1044年ミャンマー族のアノーヤター王が最初の統一王朝をバガンに樹立した。これが、第1次ミャンマー王朝といわれるバガン王朝である。バカン王朝はミャンマー族の王権を強化するために上座部仏教を積極的に採用し、仏教文化が隆盛を極めた。しかしながら、このバカン王朝も1287年元のフビライ・ハーンによって滅ぼされた。

その後、13世紀から16世紀は、ミャンマー族とともに上ミャンマーのシャン族、下ミャンマーのモン族の各民族による群雄割拠時代となり、内戦、対立が繰り返された。

1531年タビンシュエティ王がポルトガル人の傭兵と火器を効果的に利用し、バゴーを首都として国土再統一をはかる。第2次ミャンマー王朝といわれるタウングー王朝である。

タウングー王朝は16世紀後半、タイのアユタヤ王朝と海上貿易権を争い、2度勝利したが3度目には敗北している。

17世紀にはいるとミャンマー王朝は衰退し、モン族の勢力が活発化し、ミャンマー王朝は危機に瀕した。1752年ミャンマー族がイラワジデルタに進出、モン族をうち破り、1753年アラウンバヤー王が首都をマンダレーとして王朝を樹立した。これが第3次ミャンマー王朝といわれ、史上最大の領土を持つこととなるコンバウン王朝である。 


植民地時代


英国のミャンマー侵略は1824年に本格化し、1824年から26年までの第1次英緬戦争で、ヤカイン地方とタニンタリイ半島部がイギリスに割譲され、植民地化された。続く、1852年の第2次英緬戦争では、現在のヤンゴンを含む下ビルマ(南半分)が英国の統治下に入れられることとなった。そして、1885年の第3次英緬戦争に敗北をし、全土がイギリスの植民地となり、ここにミャンマー王朝時代が終わりを告げた。

コンバウン王朝が半世紀以上にわたり英国の植民地化に抵抗したことが、英国統治下の植民地時代を過酷なものとする結果となった。

英国はミャンマー全土をインドの1州として統治し、国として認めなかった。

政治的には、徹底してビルマ人を排除し、各州の間接統治、分割統治を実施し、国内では中間管理者として少数民族を登用した。これにより、一度は確立したビルマ族の地域における主導権が失われ、後々のミャンマーにおける民族対立の火種として残ることとなった。

経済的には、英国の世界的な植民地経営戦略の中で、農産物や鉱産資源の供給地として単一的な経済構造を定着させられた。また、政策的にインド人を移民させ、優遇した。地主や金貸し、商人としてミャンマー人を支配するようになり、イギリス資本、中国人資本とともにミャンマー経済を牛耳ることとなり、ミャンマーの経済的な自立を長きにわたって阻害する元となった。


独立活動


反英闘争は農民反乱と、僧や学生の独立活動によって指導された。

1908年、日露戦争に触発された僧が青年仏教徒協会(YMBA)設立し、最初の民族主義運動を展開したが、英国の取り締まりは厳しく成果を上げることはなかった。

1929年の世界恐慌により米価が暴落し、ミャンマー人の多くが借金のかたに土地をインド人や中国人に奪われ、土地無し農民の割合が75%にも達した。1930年には下ミャンマーにおけるインド人水田所有面積は全体の6%であったのが、37年には25%にまで増えていた。また、当時のラングーン(現ヤンゴン)での人口の半分はインド人が占めるようになった。

1930年にはタヤワディ地方で、サヤー・サン率いる農民たちが宣戦布告し、武装蜂起に立ち上がった。これをサヤサン革命といい、植民地支配とインド人地主に苦しめられていた農民たちを巻き込み、たちまち下ミャンマー全域に広がった。しかしこの運動も英国の武力弾圧によって1931年半ばに鎮圧され、78名が処刑された。

1940年、アジアへの進出をもくろんでいた日本軍は、援蒋ルート(英米連合軍が中国蒋介石を支援するためのインド、ミャンマー、雲南に抜けるルート)を絶つために独立運動を利用した。日本軍の鈴木大佐を長とする秘密組織「南機関」が、アウンサンやネ・ウィンなど30人の若者(30人の志士)を日本、台湾、海南島で軍事訓練を行い、武力による独立運動を支援した。1941年12月、日本軍が米・英に宣戦布告をすると同時に、バンコクで旗揚げしたビルマ独立義勇軍(BIA)は、日本軍とともにミャンマーに進出、各地で義勇兵を集めながら、英印軍と戦った。英印軍を破った日本軍は直ちに全土を軍政下においたが、アウンサンとの約束を反故にして独立を与えなかった。1943年に認められた独立は日本軍政下の名目上のものに過ぎなかった。

アウンサンらは共産党など他の地下独立運動組織と連帯し反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織し、本当の独立を目指して今度は抗日抗争を始めた。1945年一斉蜂起し、連合軍と協力してミャンマー奪還作戦を展開し、イギリスとの交渉の結果、1948年に念願の独立を果たすこととなる。

英国との独立の合意がほぼなされた1947年7月19日、アウンサンは他の官僚たちとともに暗殺された。ミャンマー独立という大切な時期に国家指導者としてのアウンサンを失うことがミャンマーにとっての悔いの残ることとなった。


独立からネウィン政権の始まり


1948年の完全独立後、ミャンマーは二院政の議会民主主義をスタートさせ、初代首相にはウー・ヌーが選ばれた。与党AFPFLは各政党の寄せ集めであり、政治的に、アウンサン将軍を失い傑出した指導者がいなくなっていたため、中立的な立場であった弁護士のウー・ヌーが選ばれたものであった。そのため、政治的には分裂状態となった。

独立国家として、外国人支配の経済構造から脱却し、ミャンマー人による経済構造を作ることが求められていたが、国内政情の不安と穏健的な政策でほとんど進まなかった。

植民地時代、中間管理職としてミャンマー人等の上に立っていたカレン族がビルマ優先の独立に反対し、武装反乱を繰り返した。他の少数民族も独立や自治権を要求して武力活動を始めた。一時は首都圏を除く地域での統制力を失うほどであった。

軍の最高司令官であったネーウィンは、ミャンマーの国家的主権と連邦制度の存続に危機感を持ち、1962年、クーデターを決行した。

ビルマ社会主義


ネーウィン将軍を議長とする革命評議会は、議会を解散して国軍幹部による軍部独裁政治体制を樹立した。西洋民主主義はミャンマーの風土に合わないとし、ビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党独裁を進めた。

内戦状態にあった共産党や少数民族の武装反乱軍との問題も国軍の徹底掃討作戦により、1967年を契機にほとんどが解決した。

ネーウィン政権は外国人に握られていたミャンマー経済を、ミャンマー人のものとするために、62年の銀行国有化を皮切りに、鉱工業、流通の主要部分を順に国有化していった。特に外国資本を対象としたこの急激な国有化政策の実施で、インド人、中国系住民約200万人が国外に出てくこととなった。

農業では農地の再配分が行われ、自作農化がすすめられ、大規模地主や不在地主が農村から姿を消していった。

しかしながら、急激な国有化は国民経済の混乱を巻き起こした。国有化された企業の生産が減少し、経営が悪化した。国有企業を保護するために採られた鎖国的、統制政策により、モノ不足、失業問題が表面化していく。
1980年代にはいると米の輸出不振による外貨不足、石油の減産によるエネルギー不足、一層の国営企業の不振で経済悪化は深刻化した。

政府は、これらに対して有効な手だてが打てず、1987年に米を含む農産物7品目の自由化を実施し、価格管理政策を放棄した。これに伴い米価が上昇し国民生活を一層圧迫した上に、突然の廃貨幣の実施が国民経済に混乱を引き起こす結果となった。

また、経済発展を続ける近隣諸国を横目に、対外債務の無償化を狙って国連に最貧国(LLDC)の申請を行うなど、国民感情を逆撫ですることとなった。

1988年、低迷するミャンマー経済に鬱積した国民の不満が一挙に爆発した。学生運動に端を発したビルマの民主化運動は、全国的、全階層的運動に発展しミャンマー全土の大衆運動となった。この大衆運動によって、26年間にわたるビルマ社会主義計画党による一党支配は崩壊することとなる。

 
     
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